奪ふ男

ジョーカー 2−14 (1/4)
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 怪我をするということ。大怪我を負うということ。血を流すということ。暴力を振るわれるということ。
 毎日毎日、どこかで誰かの事件は起こっている。ブラウン管から何度も流れてくる傷を負った事件の情報。耳から耳へすり抜けるとしても、意味は理解していた。
 僕はその言葉の意味を知っていた。
 知っているつもり、だった。
 僕は本質を知らなかった。想像もできていなかった。言葉でしか理解していなかった。
 怪我を負った人間の悲惨な状態を、何もわかっていなかった。
 初めて、深い怪我をした人を見た。直接この目で見て、僕は初めて理解した。怪我を負うとはどういうことか。大怪我を負う、血を流す、とはどれだけ凄惨なことか。
 僕は凝視していた。
 水で薄まったとはいえ、床や花を濡らす赤い赤い血の色を。大きく広がる血の量を。その強い匂いを。大きな痛みとショックで横たわり、恐怖のためなのか全身を痙攣させているルリを。
 僕は初めて聞いた。
 暴力を振るわれた人間の悲鳴を。あまりに激しい痛みに耐える人間の泣き声を。
 これらの初めて知ることがルリに、よりにもよってルリにもたらされたものだということに、頭のどこかが麻痺しそうだった。
 僕は、陸奥が暴力を振るった過去があると聞かされたとき、この現実をまったく理解していなかった。前の彼女と同じようなことがルリに起こるかもしれないと思ったときも、そうしたら彼女と同じように引っ越してしまうかもしれないと、本当に憂慮すべきこととは別のことを考えていた。
 陸奥が暴力を振るい、ルリから血が流れる結果となる。
 そうなることは十分考えられることだった。
 そしてそれは、引っ越しだとかそれ以前に、何にもまして考えて、避けようとしなければならないことだったのに。僕が守らなければこうなることは一つの当然の結果だったのに。
 僕は今まで何も理解していなかった。何も、何も!
 僕が本当に理解していなかったのは、僕自身にもわかる。血を流して横たわるルリを目にするだけで、大きなショックで動けないのだから。
 ルリはしゃくり上げ続けている。もうやめて、殴らないで、そう言っているかのように、床の上で身体を丸めて。
 非日常の望まない光景が存在することが、僕の中に隅々まで行き渡り、ようやく僕は声を出せた。
「ル、リ」
 反射的にルリは、ひっ、と声を上げて余計に身体を丸める。僕だとわかっていない。
 ゆっくりとルリの横に膝をつく。割れた花瓶から流れた水で、ズボンの膝が濡れたけれど、気にしている場合じゃない。ルリ自身は頭から水をかぶり、制服の上から胸までも濡れている。
 ルリの両手は握りしめられていたけれど、雪の中にいるかのように震えていた。片手で、そっと、その手の上に置いた。
 もう片方の手で、ゆっくりと、ルリの顔にかかった髪を後ろに梳きやる。
 涙が頬を覆っていた。額には血が流れ落ちている。額自体には、傷は見えない。多分、頭を怪我している。でも髪の毛で覆われて、どこを怪我しているかは判別つかない。
「……とも、あき?」
 しゃくりあげる合間に、僕の名をルリは呼んだ。視線はうつろに僕の方へ向いてくれていた。
「もう大丈夫だよ、大丈夫だから、安心して」
 なぜだか、僕の声も震えそうだった。安心させたいのに。

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