奪ふ男

ジョーカー 2−11 (2/5)
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「酔ってないよ」
 そう言っても、ルリは僕にコップを向け、きつく睨んでいる。ルリから視線をそらし、仕方なく、僕は水に口を付けた。飲んでいる途中の僕をまだ睨みながら、ルリは言った。
「智明、もうこれからお酒は飲まないで」
「だから酔ってないって」
「飲まないで」
 ルリは聞く耳を持たなかった。僕はもう一度、酔っていない、と伝えようとしたけれど、声は出なかった。
 ルリの瞳は潤んでいた。睨むような視線は、涙となって落ちるのをこらえているためだと、僕はやっと気づいた。
「今日、智明のしたことも、言ったことも、全部忘れるから、もうお酒は飲まないで」
 理不尽さを感じる要求だった。いつもだったら、酔っていない、ともっと反論するかもしれない。
 でも、できなかった。
 涙の奥で、ルリはどんなことを思って、どんな感情を溢れさせたのかはわからない。何が原因なのかも。
 けれど、いつもなら何でもない顔をするルリが、目に涙を溜めている現実に、僕は声を上げることをできなかった。
「わかった。これからは飲まない」
 だから、ルリにそう約束するしかなかった。
 ルリは、一度うなずいて、僕から背を向けて涙をぬぐい、それから玄関へと向かった。
「帰る? ……そういえば、世界史の教科書だっけ? 借りたいって言っていたよね」
「いいよ大丈夫」
 この教科書を借りたいっていうのは、切実な頼みではなく、口実だったみたいだ。ルリは、僕に相談したくて来たのだろう。
 暗い夜だし家まで送ることにした。と言っても、すぐそこだけど。
 住宅街だから静かなものだった。僕の心も静か、と言うより、落ち込み気味だ。結局のところ、ルリは僕から逃げ出したことに変わりない。
「――智明。酔っている智明にこんなこと言っても忘れるかもしれないけど、今日は悲しかったよ」
 隣で歩くルリは目を伏せていた。
「あんなふうに閉じこめなくちゃ、私が智明の話を聞かないって考えられているように感じて。信用してもらえていないようで、悲しかったんだよ。話があるなら、私は一日中だって話を聞くつもりなのに」
 僕も悲しかったよ。
 閉じこめた部屋で、ルリが必死に逃げようとした事実は変わらない。たとえルリが悲しくたって、逃げてほしくなかった。どんな状況だって、鎖でがんじがらめにされた部屋でだって、僕の隣から逃げてほしくなかった。
 鎖なんて使わなくても、ルリは一晩中でも一緒にいてくれたかもしれない。そして、陸奥と別れるべきだという僕の話も、僕の気の済むまで聞いてくれたかもしれない。
 そんなこと僕は信じていたよ。いや、信じたいと思っていたよ。
 でも、聞いてくれたとしても、受け入れてくれなかっただろう、きっと。妙なところが頑固だから、どんなに話をしたって、僕の思っているとおりに別れてくれない。話は平行線をたどるだけだ。何か特殊なことをしなくちゃ、ルリは別れてくれないんだ。
「……酔ってたってことだから、もういいけどね」
 ルリはそう言って、笑った。やっと、笑ってくれた。
 ルリはずるい、と思った。
 僕はこの時まで、ルリが逃げたことをずっと悶々と考えて、落ち込み、悲しみに沈んでいた。
 でも、そのささやかな笑顔を見るだけで、ふっ、とその負の感情が浄化してゆく。その笑顔一つで、僕の不満を打ち消してゆく。
 ルリはずるく――そして時々、僕をびっくりさせることを言う。
「智明、今日、うちに泊まる?」

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