翼なき竜

9.誘惑の魔(2) (1/5)
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 ……今、陛下は何と言ったのだろう。耳が悪くなったのだろうか。
 すたすたと酔っているとは思えない足取りで女王は進む。
 宰相の部屋へ向かって。
「へ、陛下……」
「こっちじゃないのか?」
「いえこちらですが……」
 宰相は慌てて女王の後を走る。
 廊下の突き当たり、一際大きな扉がある。木製の重い扉である。
 その前に立つと、女王は止まる。
「ここがお前の部屋だな?」
 宰相は戸惑ったまま、うなずくこともできずにいた。
 しかし女王は否定しないことが肯定の意味だと捉え、重厚な扉を開ける。
「寝室はどこだ?」
 灯りのない暗い部屋に女王は目をすがめた。
 『寝室』。
 宰相も子供ではない。意図することはわかる。
 女王は暗闇の中で手を伸ばしながら、危なっかしく歩き始める。宰相は部屋に置いてある燭台のろうそくに火を付けた。
「……こ、こちらです」
「ありがとう」
 宰相はゆっくりと彼女の手を引き、静かに歩き始めた。
 絨毯の上を歩くために靴音はない。静かな夜、静かな部屋に、女王と宰相の静かな息づかいだけがある。
 ためらいがちに力を入れすぎないように握る手には、体中の熱が集まってくる気がした。
 女王陛下はどう感じているのだろう。残念ながら、暗すぎて表情は見えない。
 テーブルやソファの横を通り、部屋の奥へ進む。一歩一歩進むごとに、確実にそれは近づく。
 喉が鳴るのをこらえながら、寝室への小さな扉を開けた。
 背が高い宰相は、少しかがんで足を踏み入れた。
 宰相のベッドは、ただ眠れればいいとの考えから、天蓋もない、枕とシーツと毛布があるだけのものだ。ただし宰相の背が高いために、サイズだけは大きい。
 女王は躊躇なく進み、そこに倒れた。
 彼女の体は一度深く沈み込み、跳ねて浮き上がる。ベッドの感触をしばらく確かめてから起き上がり、靴を脱ぐ。
 彼女の足の白が、暗闇の中でまるで灯りのようにまぶしく宰相の目に入った。
 宰相はゆっくりとベッドに近づく。
 ――本当にいいんですね?
 そう声に出したい気持ちをこらえた。そう訊いて、じゃあやめる、と言われるのは困る。
 横に立つと、右膝をベッドの上にかける。静かに膝を置いたはずが、ベッドはギシ、ときしんだ。
 手を伸ばそうとしたところ、唐突に女王は言った。
「ブッフェンはな、悪い奴じゃないんだ」
 こんなところで別の人の、特に苦手さを感じる人物の名が出てきた。
 さらりと彼女の前髪が揺れる。暗い瞳にろうそくの灯りが映りこんでいる。
「良い奴でもないけどな。あいつは人を怒らす天才だよ。人の突かれたくないところを突くんだ。心の底を簡単に理解する……けれど、優しい言葉では返さず、厳しすぎる言葉を向けるんだ」
 何だろう、愚痴をこぼしたいのだろうか。
「……悪人ではない。私のためを思った言葉であることも、知っている。けれど、今の私には……痛すぎる。私が私であるために、あいつの言葉を正しいと認めるわけにはいかない、あいつの推測を間違いにしなければならない……」
「……先ほど何か、ブッフェン様に言われたのですか?」
 女王は黙した。
「ブッフェン様は、傷つけるような言葉を言ったのですか?」
 宰相は真剣に女王の顔をのぞき見た。
 我に返ったように、女王は慌てて首を振る。
「そうじゃない。傷ついたとか、そんなことはないんだ」
「…………」

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