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 番外編 薔薇のつぼみ rose bud(5) 


 ナディーンの結婚を明日に控えた日。
 夜に、シュテファンは自室にナディーンを呼んだ。
「何でしょうか、兄様」
 かつて赤毛を三つ編みにしていた少女も、大人の女性となっている。
 ディラック伯は再婚ということで、派手な式は行わないということだった。
「これを渡しておこうと思ってな。餞別だ」
 シュテファンは引き出しから細剣を取り出し、妹へ渡した。
 ナディーンは回したりしながら、その細剣を眺める。
「……兄様は、どこまでも思いの表し方が屈折していますのね」
 それを渡した意図を、ナディーンは理解したようだった。
「妹達にもお渡しになるつもり?」
「ああ。結婚するときにな」
 ナディーンは頭を下げる。
「本当にいいんだな。……いや、もはや取り返しはつかないが」
 ここで嫌だ、と言われようとも、今さら取りやめるつもりはない。
「子が産まれ、相続問題、財産問題が生じたときにでも、クラレンス家として手助けしてやろう」
 ろうそくの明かりがか細い部屋で、ナディーンの顔は揺らめきながら照らされた。
「いいえ、必要ありません」
 ナディーンは細剣を見つめている。
「一切、もう、私はクラレンス家と関わりたくないのです」
 ナディーンの表情にゆらぎはない。
「私は今……この家から出られて、せいせいしています。ふふふ……」
 疲れから解き放たれたように、ナディーンは笑う。
 そこには赤毛の三つ編みをゆらし、泣いていた少女の面影はない。
 向かい合い座っている男にも、また当時の面影はないように。
「ただ……一つだけお願いがあります。妹達を、もう、解放してほしいのです。兄様や、このクラレンス家から」
 窓の外から、夜鳥が鳴く声がする。
「解放……だと?」
「気づいておられませんか? この家が、あまりにいびつなことに。……兄様が母様を追い出してから、私はこの家で、幸せだと思えたことは一度もありませんでした」
 『母』のことは禁句であるとナディーンはわかっていながら、言葉を続ける。シュテファンは机の上の指を動かしたが、あえて止めなかった。
「私は今でも、思い出します。母様と父様が笑いあっていた時間を。母様が幸せそうに薔薇を育てていたひとときを。あれは幸せな時間でした。とても、とても、うっとりするような」
 昔を優しく思い出すように、ナディーンは目を細める。
「それを幸せだったと思い出しても、兄様が母様を追い出して以後、親のいない家庭で育ち、私は幸せとは思えませんでした。それでも妹達は、パトリーは、幸せだと言います。何も知らぬがゆえに」
 知る不幸と、知らぬ幸せ。
「私は妹達があわれでなりません」
 ナディーンはそう断じる。知らぬ幸せを、あわれだと。
「それはもう、不幸と呼んでいいと、私は思います。親のいる幸せを得られなかったことが、とても可哀想で、不幸だと。兄様を父親に見立て、歪んだ人間の下で育つことを。だから、もうこの家に縛るのはやめてあげてください。妹達に、この家では得られない、他の家の、家庭の幸せを、味あわせてあげてください」
 シュテファンは黙って聞き入り、頭を下げ続けるナディーンを見ていた。
 少しかすれたような声が、彼の口から漏れた。
「お前は……私を恨んでいたんだな」
 ゆっくりと、ナディーンは顔を上げる。
 妹の表情はろうそくの火に照らされる。苦しみと、そこから抜け出せられたような安堵感が、同時にそこにあった。
 お前のせいだ、と面と向かってなじられた方が、よかったかもしれない。
「私は妹達とは違って……兄様を父親とは思えませんでした。代わりに、ずっと、ずっと、本当の親を求めていました。兄様を憎み、怨み……疲れました。全てに疲れて、新たな『父親』が、ほしかった」
 強く、目を瞑る。
 ナディーンの結婚する相手、ディラック伯を思い出す。
 彼は落ち着いて、全てを包み込めるような人間だった。
 ナディーンが彼に恋しているとは思えない。それでも……ナディーンには必要だったのだろう。
 追い出した母親の代償、近寄ることのなくなった父親の代償。
 いろいろなものを吐き出すように、シュテファンは息をつく。
 見上げたとき、ナディーンは辛そうに顔を俯け、その瞳が潤んでいた。
 兄として、できることはない。全てが遅過ぎた。だからこそ、彼女は妹達のことを頼んだのだ。
「もう行け」
 椅子を回し後ろを向き、シュテファンは冷たく言った。
 しばしナディーンはその場にいた。けれど彼は何かを言うつもりはもう、ない。
 扉の開く音、閉まる音がして、部屋にはかすかなろうそくの炎の音だけが残る。
 かほそいろうそくの灯だけの暗い部屋で、シュテファンは夜の闇を窓から見ていた。
 悪夢だったのは、自分だけではなかった。その影で、ナディーンはじっと見ていたのだ。そして落胆し、この家を見捨てた。
 世に言う。あれが大貴族クラレンス家、と。その若き当主代理にして、有能なシュテファン、と。
 ふ、とシュテファンは自嘲して、落ちていた前髪をかきあげる。
 こんな家、滅べばいい。全て無くなればいい。
 シュテファンは初めて思った。
 さっさと出て行け、妹は皆。できるだけ早く、早く。そのためなら、どんな努力も惜しまない。この自分から離れていけ。
 呪われたようなこの家を、早く。
 それが一番だと、ナディーンの決意を見て、シュテファンはわかった。そして自身も決意した。
 歪んだ自分には、この家で幸せを誤解させることしかできないのだろう。
 そして最後に残るのは……。
「シュテファン様?」
 気づくと、扉が開いて、シルビアがいた。
 考えていて、扉を叩く音に気づかなかったらしい。
「ナディーンさんの結婚は明日ですね。楽しみですわ」
 うきうきとした様子でシルビアは言いながら、近づく。
「……シュテファン様? 顔色がよろしくないようです……」
「なんでもない」
「そうですか? お体は気を使ってくださいませね。……ああ、そういえば、聞いたところによると、海水浴が健康にいいそうなんですよ。ナディーンさんの結婚がすんで、時間が出来たら、行きませんか?」
 シルビアはいつも聖母のようだ。
 にこにこと笑い、相手のことを気遣う。
「海はきっと美しくて、気分も晴れますよ」
「……ああ、時間ができたらな」
 後ろを向いたまま、シュテファンはそう答えた。
「きっとですよ」


 ナディーンの結婚が片付いたと思ったら、次は次女・ローレルの結婚話である。
 父は長女の結婚の苦労に懲りて、他全員の妹の結婚をシュテファンに押し付けてきた。
 シュテファンは気合を入れて、良い相手を探した。
 そしてある相手を探し、ローレルに、
「こいつと結婚しろ」
 と言った。
 シュテファンは反論を聞く気はなかった。もしここで嫌がられたとしても、強制的に結婚させるつもりだった。それは他の妹も同じだ。
 ローレルは特に夢見がちで、顔だけで男を見るような傾向がある。
 心して掛かっていたが、ところが。
「わかりました」
 ローレルは同意し、あっさり決まった。
 その次は……と、年中妹の結婚に奔走するようになる。
 反抗する妹もいた。騒動の末、結局、納得させたが。
 パトリー以外全員嫁に出したとき、久しぶりにシュテファンに時間ができた。
 図書室から本でも持ってくるか、と廊下を通っているとき、窓から、足を止めるようなものが見えた。
 窓からは庭が見える。そこにシルビアがいた。
 また園芸に勤しんでいるのか、と思っていると、そこに男が現れた。
 クラレンス家に仕えて働いている者ではない。
 シルビアと男が何かを話している。シルビアの知っている男のようだ。
 遠すぎて声は聞こえない。
 しばらく話していた後、シルビアが男の手を両手で握った。何かを強く言っていた。
 そこに、新しい庭師が近づいてくる。
 気配に気づいた二人。シルビアは男を逃がした。
 そして何もなかったかのように、シルビアと庭師が話を始めた。
 何だこれは。
 そう思いつつ、シュテファンの頭の中ではほぼ、結論が出ていた。
 簡単なことだ。
 シルビアに秘密の愛人がいる。
 貴族ではよくあることだ。
 しかし、信じられない。
 それでも、今見たのは事実だ。やましいことがなければ、男を逃がすことはない。
 その日の仕事は、シュテファンには手がつかなかった。


 夜。
「お呼びですか、シュテファン様」
 戸惑いながら、シルビアは部屋に入ってくる。
 こんなことは、予測しておくべきことだったのだ。政略結婚であったのだから。
 相手に別に好いた男がいることも、当然のことなのだろう。
 当然のことだとしても。
 シュテファンには、見て見ぬふりをすること、何にも知らない顔でいることは、できない。母のことがシュテファンの脳裏をよぎる。……あの父とは違うのだ。
 後ろを向いたまま、シュテファンは言い放つ。
「出て行け」
 え、とシルビアのか細い声がする。
「シュ、シュテファン様……」
 なぜ、と言わんばかりの声音で。
「今日、男と会っていて、それでも問うか?」
「それは……」
 言い訳を聞くつもりはない。
 シュテファンは無理やりに、部屋から追い出す。
「出て行け、さっさと!」
 そう叫ぶと、扉に鍵をかける。どんなに扉を叩かれても、出て行くつもりはない。
 しばらくすると、扉を叩く音もなくなった。
 乱暴に座ると、自然と笑い声がこみ上げてきた。
 ふと見た窓ガラスには、母が映っているように見えた。母は無表情で、自分を見ている。
 自分と母の姿が重なる。
「認めてやる」
 貴族には二種類の人間がいると、昔から思っていた。
 甘ったれた愚か者と、世の中を斜に構えた人間と。
 前者を卒業したと、自分で思い込もうとしていた。ずっと。
 だけど。
「私は、私は何も、変わっていない。今もなお、甘ったれた愚か者だ」
 自分に言うことができるのは、『出て行け』という言葉ばかり。
 本当は、『ここにいてくれ』と、そう言いたいような、甘ったれた精神を持ちながら。
 しかし、自分にそんな言葉を言うことは不可能だ。そんなことを言うくらいなら、死んだ方がましだ。
 そう考えるくらいに、プライドは積み重なっていた。
 自分に出来るのは、ただ追い出すことだけ。
 ただそれだけの、愚者だ。
 誰かの痛みに気づかず、誰かを傷つけ、誰かを泣かせ、誰かを怯えさせ。
 これからもそうした生き方しかできないだろう。
 ただクラレンス家のためだけに、妹達を無理やりに結婚させる。滅びを望みながら、家のために全てを犠牲にする。
 かぶった仮面は、もはや自分と同化している。
 一人。
 ただ一人で。

 ……数時間経った頃、シュテファンは扉の鍵を開けた。
 うつろなシュテファンの瞳が、見開かれる。
 そこには、シルビアがいまだ立っていた。
 ただひたむきに見つめるシルビアが。
 喉から声を出しても、
「……まだ、出て行っていなかったのか」
 そんなことしかシュテファンには言えない。
 正面から見ることはできなくて、顔を背けた。
「出て行きません」
 毅然とシルビアは言う。
「私は、あなたの妻です。私は、ずっと、あなたの側にいます」
 何も言えないシュテファンに、シルビアは続ける。
「昨日会っていたのは、弟です。チャットウィン家を飛び出して、吟遊詩人となった……。金をせびりに急に来たのです。シュテファン様に迷惑をかけたくなくて、言うことができずにいました。私はシュテファン様を裏切ってはおりません。どうか、信じてください……」
 シルビアはシュテファンへ体を寄せる。
 シュテファンはぎこちなく彼女の背へ手を回した。そしてそのまま、強く抱きしめる。
 胸の中で、彼女が泣いているのが分かる。
 彼女はここで待っていた。
 自分を待っていた。
 それだけで、もう十分だと思った。
 嘘でも真実でも、それだけで、もう、よかった。


 月日は巡る。
 パトリーの一度目の婚約が失敗し、ランドリュー皇子との二度目の婚約。
 それらを巡った策謀。
 その途中で、シルビアは、シュテファンの元から去っていった。
 大きな喪失感がありながら、パトリーのことは諦めるわけにはいかなかった。
 何としても、他の家庭を手に入れさせなければならないと思った。一度目の結婚の失敗で、パトリーが深く傷ついていると解っていたから、なおさら。
 妹に会社を立て、人を引き寄せる才があるとわかっていたから、皇子の妃にしようとした。皇子の妻ならば、国を動かす力を持ち得る。クラレンス家も協力すれば、難しいことではない。彼女が家の中にとどまるような女ではないとわかっていたからこそ、国を動かす仕事のある皇子の妻にしようとしたのだ。
 それに相手のランドリュー皇子にはパトリーにとって相応しく、そしてシュテファンには持ち得ない、優しさを表現することのできる能力があった。
 何としても、自分が悪役となっても、結婚をさせようと思った。
 そしてハリヤ国の革命運動、誘拐。
 パトリーがランドリュー皇子へ婚約解消を申し出た。それがため、パトリーはクラレンス家から絶縁することとなった。
 妹は、彼女自身の道を行く。くびきから解き放たれ、己で選んだ己の道を行く。
 シュベルク国とハリヤ国が開戦するかは微妙な問題だが、役目を終えて、シュテファンは母国へ帰国する。
 妹達の結婚問題は終わった。
 クラレンス家から、皆、いなくなった。
 もう誰もいない……。
 望みを果たしても、なぜか心は空洞のままだ。
 冷たい風がふく朝、シュテファンの乗る馬車がクラレンス家の館の前に止まる。
 どこかうんざりしたような気分で、馬車を降りる。
 誰もいなくとも、それでもまた、忙しさに追われるのだ……。
 館へ戻ると、家令が驚くべきことを言った。
 信じられなくて、いるという庭へ向かう。
「あー、父様ー」
 息子が指差し、とてとてと、近寄ってくる。
 その息子の側には……シルビアがいた。
「お帰りなさいませ、シュテファン様」
 彼女は笑う。
 いつも、変わりなく。妻として、いる。
 彼女は側にいる。
 これまでも、これからも……。
 それを信じることが出来ることがどれだけ幸せか、シュテファンにはようやくわかった。
 息子を抱き寄せ、シルビアをも抱きしめた。強く、存在を確かめるように。
 今なら全てを許せそうな気がした。
 母のことも、凝っていたものも。
 秋は深い。
 庭園には、変わらずにシャーリングス像が水瓶から水を流している。幾何学的な生垣もきちんと剪定されていた。
 そして、さきほどシルビアがいた場所の後ろでは。
 秋咲きの、美しい紅い薔薇が咲いていた。母の育てたものとは違う、けれど愛しく美しい花。
 ほころんだばかりの蕾は、朝露に濡れていた。



      END.


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