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番外編 薔薇のつぼみ rose bud(1)
貴族という種族には大きく分けて二種類あると考えていた。
育ちゆえに甘ったれた愚か者か、世の中を斜に構えて見るような人間か。
幼いときからそうではないかと思っていたが、今もなお、間違いだとは思えない。
人々の談笑の場には、薔薇の香りが満ちていた。
いい天気だった。空は澄み渡り、時折緩やかに風が流れる。
クラレンス家主催のガーデンパーティには、多くの貴族が集まっていた。用意された飲み物や軽食を手に、思い思いに会話を交わしている。
シャーリングス像の持つ水瓶から水が落ちる。それを中心に、立派な噴水がある。運命の女神シャーリングスとは隣国の神の一人だ。珍しくて、噴水の周りに人は集まっている。
その噴水を中心とし、幾何学的に生垣が剪定されている。
少し離れたあたりに、薔薇の庭園ができあがっていた。色は紅。春の、花盛りの時期だった。
貴族達はその庭のいたるところで談笑している。その中で、少年が一人混じっていた。
亜麻色の髪は肩ほどで切りそろえられている。年は10ほど。その年に不似合いな、落ち着きが備わっていた。胸には紅い薔薇が飾られている。
それがシュテファン=クラレンス。
クラレンス家の嫡子であった。
シュテファンは貴族達に挨拶を交わして歩く。彼にとってこのような場は初めてではない。知り合いの貴族も少なくなかった。
ふと、薔薇の庭園あたりに、見知らぬ少女がいるのに気づいた。服からして、メイドなどではなく、貴族の令嬢だろう。
このような場に、同じ年頃の子供はめったにいない。気まぐれな好奇心から、シュテファンは近づいた。
「……あら、シュテファン様ですね」
相手の少女は自分を知っていた。貴族的な作られた笑いでなく、自然に笑いかけられた。
「はじめまして。私はチャットウィン家の、シルビアと申します。とても優秀な方だと聞いておりますわ」
「………。ところで、なぜこんなところに一人で?」
「薔薇がとても美しくて。見とれてしまったのですわ。こんな薔薇を育て上げるなんて、羨ましい限りです」
彼女はガラス細工に触れるかのようにそっと、薔薇に手を伸ばす。ふと、彼女がシュテファンへ向き直る。
「あら。シュテファン様の胸に飾ってあるのは、同じ薔薇……」
「ああ」
気づいたように、シュテファンは自身の胸の薔薇を見る。すっと抜き取ると、彼女に手渡した。
彼女は躊躇している。
「あの……でも……」
「少なくとも私より似合う」
シルビアは頬を染めて、受け取った。
シュテファンにしてみれば、薔薇なんて華美な飾りは好ましくない。真の貴族は、ことさらに飾り立てずとも、優雅な外見を演出できると思っている。
「この薔薇を育てたのは母です。そんな誉め言葉を聞いて、母も喜ぶでしょう」
全く感情を出さないようなシュテファンに、シルビアは目を見開く。
「まあ。クラレンス家の奥様が? お会いしたいのですが、どこにいるかご存知ですか? こんなに見事に育てるなんて、その極意を聞いてみたいものですわ」
「残念ですが、母はこのパーティに参加しておりません。ちょうと臨月でして。体調のことを考えて」
「臨月……それは知りませんでした。奥様も、お腹のお子も、ご無事でありますように、祈りましょう。シュテファン様も妹か弟ができる、と楽しみにされているのでしょう?」
シュテファンは口を噤んだ。すでに妹が四人もいるのだ。驚きはもうない。
「うちは妹ばかりですから、弟であれば、と思います」
「そうですか? 私には弟がいますが、もう、手が付けられないようなやんちゃな子で、家中振り回されていますのよ。妹だったらどんなによかったか、と思いますもの」
シュテファンは、これ以上無駄話をしていても無意味だ、と思い、頭を下げてそこから立ち去った。
庭から館の中へ入ったシュテファンは、母の部屋へ向かった。
「シュテファン!」
母はすがり付いて泣き始めた。
「もう嫌! ああ、どうしてアタシはこんなことに……」
うんざりしたような気持ちを隠して、シュテファンは母が落ち着くのを待った。
「母様。どうしたのですか」
ぐちゃぐちゃの顔で、母は手を伸ばす。その手はシュテファンの顔を挟む。
「ああ、お前だけ。シュテファンだけね。母様の味方は。あの人にはもう、耐えられない……もういや……。シュテファン、シュテファン。可愛いアタシのシュテファン……お前だけは見捨てないわよね……ねえ……」
「ええ、ええ。私はここにいます。ここにいますから。まずは落ち着いてください。お腹の子にも悪いでしょう」
シュテファンは置いてあった水差しからコップに水を注いだ。
「どうぞ。ほら、飲んで。母様、何を不安になっているんです。私はここにいます。ベッドに横になってください」
侍女たちに手伝ってもらい、母はベッドに横たわった。
「ああ……シュテファン……。薔薇、取ってしまったの……?」
母は悲しそうな顔をする。
胸に挿していた薔薇は、ガーデンパーティの前に、母がつけたものだった。シュテファンは舌打ちしたい気持ちを抑えた。
「……どこかで落としてしまったようです。そんな顔をしないで下さい。今度は落としませんから。まだ薔薇は咲いているし、またこんなパーティもあります。さあ、寝てください。さあ……」
「ああ……シュテファンは本当にいい子ね……。アタシが頼れるのは、お前しかいないよ……」
しばらくして、シュテファンが部屋から出てきたとき。彼の口から、疲れたようなため息が洩れた。
数年前から、父と母の仲が悪くなっていた。
こじれるところまでこじれ、最近では父はこの家に寄り付かない。ミラ王国に行くだとか、知り合いの貴族の家に泊まるだとか、そんな言い訳で忌避しているのは明らかだ。
それが母の精神を更に不安定にさせるのだった。
顔を合わせればうんざりするような言い争い。父という拠り所をなくした母は、シュテファンにすがる。
「坊ちゃま。旦那様がお呼びで」
家令が扉に寄りかかっているシュテファンにそう呼びかけた。
何も言わず、シュテファンは庭へ向かった。
何日か経って。
クラレンス家に、新たな娘が産まれた。
名をパトリーと言う。
シュテファンが妹に初めて会ったのは、産まれてから数日後。
ベビーベッドの上で、すやすや眠っている。柵の上に手をかけ、シュテファンは見下ろす。
「……弟がよかった」
そんな声に、後ろにいた家令は苦笑していた。
「……だが、女が生まれたなら生まれたなりの、わけがあるのだろうな」
指を伸ばし、頬に触れた。ぷに、とつつくと、赤ん坊は眉を寄せた。
ベビーベッドの中だけは、不可侵の平和な空間に思えた。誰かの感情や意図に動かされることのない、一人きりの、つかの間の平和。
これが最後の兄弟であると、シュテファンには分かっていた。
父母の険悪さから考えると、妊娠したという母の言葉すら、最初は信じられなかったくらいなのだ。
これから父母がどうなるのか、シュテファンにはわからなかった。
確かなのは、この妹には、父母の仲のいいところなど、見ることはできないということ。
そう考えると、何も知らずに眠っている妹に、あわれという感情が浮かんだ。
少しだけ生えている赤黒い髪を、そっとなでる。
望んでいた弟ではないが、可愛がってやろうとシュテファンは考えた。
母の呼ぶ声がする。声の調子から、また愚痴られ、すがりついて泣かれるのだと、予測できる。それでも何も言わず、素直にそちらへ向かった。
妹が生まれたことで、少しでも父母の仲がよくなればいい。
そんなシュテファンの淡い期待は脆くも打ち砕かれた。
父母はどちらも、生まれたばかりの赤ん坊のことなどどうでもいいようだった。父の考えはよくわからないが、母は自己憐憫に忙しいみたいだ。
あくまで母の溺愛の対象は、シュテファンだった。なぜ、他の妹でなく自分なのか、と考えると、それはシュテファンが嫡子であるという理由に他ならないだろう。
母は貴族出身だが、クラレンス家の嫁となるには、身分が違う。それをごり押しで父は結婚した。つまり、父亡き後のクラレンス家での自分の立場を守るため、なのだろう。現在母を保護しているのは父だけだから。
かといって、母は妹達を邪険に扱っているわけではない。それなりに、貴族の奥様としては妥当なくらいの愛情を注いでいる。
だから、クラレンス家では、父母の言い争い、母の精神不安定状態、を除いては、平和だった。
パトリーが生まれて数ヶ月で、父の足はかなり遠のいた。一ヶ月に一度帰ってくればいい方なくらいに。別宅を用意し、そちらが本宅のような生活を送っているらしい。
母の精神状態はますます不安定なものとなる。それを宥められるのは、シュテファンだけだった。
シュテファンは疲れた生活を送る。
それでも、まだそのときのクラレンス家は、平和だった。
薔薇は完全に散っている、夏。
聞きなれない人物の名に、机に向かって本を読んでいたシュテファンは振り向いた。
「モーズレイ子爵?」
「はい、左様にございます」
元は黒髪だったが白髪交じりで、銀髪となった家令は、戸惑い交じりで言った。
「奥様がお呼びになられた方でございます。その方を、このクラレンス家にしばし滞在させるとのことです」
シュテファンの頭の中で、モーズレイ子爵、という人物を思い起こそうとするが、何も浮かばなかった。
「そのモーズレイ子爵というのはどういった人物だ」
「さぁ……わたしもよくは知らないのですが……。奥様は、とある夜会で知り合った方、とおっしゃっています。話して、とても気が合ったのだとか」
ふぅん、と考えて、シュテファンは再び机に向かった。
思い浮かばなかった、ということは、政治や権力闘争で意味のある人物ではないだろう。貴族という種族の中にたまにいるが、芸術の分野だとか、シュテファンにとっては無駄と思える分野にばかり目を向ける人種がいる。そのモーズレイ子爵というのはそういった人間だろう。
わざわざこちらから出向いて挨拶をするほどの人間ではあるまい。
母の暇つぶしになるのならそれでいい、と、再び難しい本へ意識を集中させた。
その日の夜更け。
シュテファンは机で伸びをした。
ようやく、難解な本を読み終わったのだった。
夕飯は家族とは取らず、部屋に運ばせて、食べながらも読み続けた。
たまにではあるが、そういうこともある。
疲れた目を少し休めると、シュテファンは立ち上がった。そしてその本とランプを手に、部屋の外に出た。
クラレンス家には蔵書が多い。図書室と呼ばれる部屋に貴重な本が納められている。
本日シュテファンが読んだ本も、その一冊だった。
夜ではあるが、返しに行こうと、夜の館を進む。
月の輝く音が聞こえてきそうな夜だった。その日の望月は、どこか赤らんでいるように見えた。生々しく、血の滴るような月。
不吉な月だ。
シュテファンは考えながらも、静かに歩く。
扉がほんの少しだけ開いている部屋があった。明りの線が、廊下と壁まで細長く伸びていた。
まだ自分の他に起きている奴がいるのか。
そう眉をひそめながら、誰かを考えてみる。
妹のローレルだろうか。ローレルは次女で、考え足らずではしゃぎまわるようなタイプである。どうせ、夜中になっていたと気づかずに、髪飾りや化粧品で遊んでいるに違いない。
扉へ手をかけようとしたとき、声が聞こえた。
それを聞いた瞬間、シュテファンの体が硬直した。
ローレルの声ではない。大人の女の声。
母の声だった。
それだけではない。男の声もする。これは知らない声。
二人の声は混じりあい、二人が何をしているのか……シュテファンは分からないほど子供ではなかった。
――今すぐ逃げ出したかった。
だけど、確かめずにはいられないのだった。
ほんの少しだけ開いた扉から、中を覗き込む。
その目の前の光景は、予測したものと同じものであった。決して望んでいない予測と。
本を抱えている手が震えているのに気づいた。手は汗ばむ。
その汗ばんでいた手で、自分の口を押さえる。
扉から離れて、ここはどこかと見渡した。
そこは、客間の並ぶあたり。
目に焼きついた衝撃の光景に、シュテファンは口を押さえたまま、部屋へ走り戻った。
シュテファンはその日、眠ることはできなかった。
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