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 番外編 ベール(2) 


 子供の足では、追いつくのは難しかった。何とか見失わないように走って、辿り着いたのは、城下町。首都・ライツで最もせわしない場所、市場だった。
 魚がよく獲れることが売りの国だから魚介類が多いが、その他にも野菜、衣類などもある。貴族たち御用達の百貨店などは、城に近く、一般庶民のためのこの市場は少し遠かった。
 ノアが必死に走ってメイドを見つけたときには、メイドは金を受け取り、ベールを男に渡していた。
「そのベール!」
 ノアは思わずベールをつかむ。
「なんだぁ? 坊主」
「そのベールは母上の!」
「これは今、俺が買ったものだぜ」
「お願いします。返してください。それは母上にとって大事なものなんだ」
「誰がタダで返すか。金を払いな」
 ノアは困惑した。
「お金……お金は……」
 持っていなかった。母なら持っているだろうが、「母上の方にツケておいてくれ」というのはどうかと思う。
「と、とにかく返してください!」
 ノアはベールをひっぱる。
「誰が返すかッ!」
 男もひっぱる。
 はりつめる空気。はりつめるベール。そして当然の結果ながら……
 ビリッ ビリビリビリ
「あぁぁぁぁ―――!!」
「ぎゃああっ 何しやがる!」
 二人の絶叫は市場にこだました。
 ベールは帽子の部分から垂直に、真っ二つに裂かれていた。無残にも。
「母上の、母上のベールが……!」
 ノアは破けたあたりを震える手で触れるが、そんなことをしても直るはずもない。
「小僧、なにしやがんだ!! 弁償してもらうからな!」
「でも……お金、持ってないんだ……」
「なななんだとう! ますます許せねえ!」
 男は怒りのために真っ赤な顔をして、ノアの腕を乱暴につかもうとした。周囲には人が集まり、はらはらと見守っている。
「大人げないわよ!」
 少女の声が、その場を貫いた。人ごみの中から出てきた少女。
「大人が子供に突っかかって! いつからこの国の商人はそんな狭い心の持ち主になったのよ」
 その少女はノアよりも少し幼い少女だった。
「なんだと、ガキがっ! 大事な商品を破いたんだぞ、この小僧は!」
 しょんぼりするノアに、少女はため息をついたように見えた。少女は男の傍らまで寄り、小さな声で男にささやく。
「逆立ちさせたってろくに金が入らないんでしょ? こんなに人に見られているんだから、子供に優しいところでも見せてイメージアップを考えなさいよ。商品は宣伝料とでも考えて。どうせ商品にならないんでしょ、それ」
 男はうなる。見世物のように集まっている人々を見て、男は一拍ほど逡巡する。するとくるりとノアに向き合った。男の顔は怒り狂ったものから、営業スマイルへと変貌していた。
「坊や、そんなにコレがほしいのなら、オジサンがあげようじゃないか」
 男はベールをノアに手渡した。
「え……? いいの? 俺、お金ないけど」
「オジサンは子供には優しいからね」
 キランと歯が光る薄ら寒い笑顔に、とりあえずノアはありがとうと言って、受け取った。
「きゃあ、オジサンったら太っ腹! 子供にも優しいのね! こんなオジサンの店の商品なら、お客様に優しい、安くて良質なものがたくさんに決まっているわね!」
 さきほどの少女が大声で褒めちぎっていた。
 ノアはなんてわざとらしいんだ、と思ったが、この場は和やかな雰囲気に包まれた。
 これを機とばかりに、男は別の商品を取り出し、「さあさここにあるのは……」と商品を売り始める。
 ぼうっとしていたノアの手を、少女が掴んだ。そして人ごみから連れ出し、日陰へと入り込んだ。直射日光を浴びていたものだから、ノアはほっとため息をつく。
「まったく、危ないところだったのよ、あんた」
 少女は腰に手を当て、あきれた様子で言う。日陰のせいか、少女の顔はよくわからない。先ほどはどうしようと緊張していたものだから、ろくに少女の顔は見ていなかった。結局、少女の顔はいまだノアはよく知らない。
「役人に突き出されていたか、代金分以上に働かされていたか、それとも……あ、これはちょっと言うのはよすわ」
 ノアは、少女が目をそらして言おうとして言わなかったことを、聞きたい1割、聞きたくない9割の心境で、聞かないでおいた。たぶん、聞かなければよかったと思うだろうから。
「金持たないで、何のために市場まで来たの?」
「母上のベールを……取り戻そうと思って」
「……破れちゃってるわね」
 ノアの抱えているベールは、完全に裂かれていた。
「うちなら、裁縫道具あると思うわよ。刺繍とか女の子らしいことしろ、って言われているから、用意はされているはず」
「ベール、元の通りに直るの!?」
「……わからないわ。でも、とりあえずやるだけやってみた方がいいでしょ?
 さ、うちに案内するわ」
 日陰の通りを少女は進む。ノアはついていった。
 土地勘のないノアはついてゆくしかなかった。ここはどこだろう、と思いつつも、帰りは心配していない。城を目指せばすぐ近くの母の館へはたどりつくから。
 ノアは少女に、大きな館の裏口に案内された。門番と話があるようで、ここで待ってて、と彼女は門へ向かった。ノアは塀の影で、手をぱたぱたと扇いで、暑さをやりすごそうとする。自分の足でこんなに歩くのは滅多にない。体力のないノアはばてて、座り込んだ。
 半分だけ影に隠れていたノアは、すっぽりと全て影に覆われた。
 まぶしそうに顔を上げると、ぜえぜえと荒い息のイライザがいた。
「で、んか……お探ししました……。あと少しで、大々的に捜索隊が出さなければいけないとまで、思いました……」
「ご、ごめん、イライザ。大丈夫?」
「私は大丈夫、です。殿下、なぜ……」
 言い終わる前に、イライザはノアの持つベールに気づいた。
「あ、いや、これは、あの……」
 なぜかノアは言い訳をしようとした。自分でもわからないけれども。
「いいです。わかりましたから」
 何を察したのか、全てを察したのか、イライザはノアの言葉を止めた。
「あの、ちょっとさ、これから友達の家に行こうと思うんだ」
「この……館ですか?」
「うん」
 イライザは塀の外から見える館を見上げる。
「帰りの護衛は帰るときに呼ぶから、イライザ、帰って休んで」
 あちこちを走り回ったのだろう、非常に疲労しているイライザを休ませようとノアは思った。
 イライザは、「しかし」と、いろいろと言ったが、ノアは強くつっぱねて、イライザは帰っていった。
 これだけ大きな館だから、イライザは素性を知っているのかもしれない。その上で、大丈夫だと思ったのかもしれない。


 イライザが帰ってから、「お待たせ」と少女が戻ってきた。
 ノアは裏口を通って、館へ入った。夏ということで窓は開け放たれ、庭がよく見渡せた。花のむせかえるような香りに包まれ、せきこみそうになるほど。母の館よりも凝った庭だ。花のアーチの奥には、噴水も見える。運命の女神・シャーリングス像が持つ水瓶から穏やかな音を響かせ水が溢れ出している。低く剪定された生垣と砂利道をきっかりと区別して、幾何学的な模様を作り出している。
 その凝られた庭と同様に、館内部もまた、絢爛であった。左右からゆるやかなカーブを描いた、高い天井。自分の顔が映し出されるほどに磨きこまれた床。飾られる絵は、古のものや肖像画が並ぶ。
 身分が身分で、館自体には驚きはしなかったが、この少女の家であることに驚いた。
「商人の娘だと思ってたけど」
 少女は振り返りもせず笑って進む。似たようなものよ、と返答して。
 少女は一つの部屋に案内した。その少女の部屋なのかもしれない。大きな鏡台があったから。
 窓から鳥が飛び立つのを見ていると、少女は裁縫道具を持ってきた。
 そして縫い始めた。
 少女は集中しているために常にうつむいていた。マトモにこの少女の顔を見ていない気がする。しかし、そんな理由で顔を上げるように頼むほど失礼ではない。
「裏口から通されたけれど、表からだといけないの?」
 茶も何も出されなかったので、手持ち無沙汰で尋ねた。これだけ大きな家なら人はすぐに呼べて、すぐにお茶は手に入るというのに。少女は顔を上げずに会話に応えた。
「……勝手に人を中に入れると、兄様から怒られるの。裏からだと、門番さんと仲いいから、いろいろ融通が利くんだけどね」
「なるほど。そうやっていつも、市場に行っているわけか」
 普通のお嬢さんが市場なんかに一人で行けるはずがない。
「似たようなものじゃないの? いいとこのお坊っちゃんでしょ?」
 ノアは片肘をつく。どうしてすぐにわかるのか、自分ではさっぱりわからない。
「ところでこれ、ベールよね?」
「うん。母上のだ。母上の、大切な……」
 ノアの脳裏に、処分する、と言ったときの母の表情が浮かんだ。
「ねえ、君はどう思う? 大切な物を、急に捨てるなんて言う気持ちって、わかる?」
「え? ……わからないわよ、そんな」
「そう……だよね。
 俺もわからない。どうしてなんだろう。まったく、母上の気持ちなんて……」
 地位や館さえあればいい、なんてことはないはずだ。逆にそれは嫌だ。……自分の存在価値が、母にとって『皇子』でしかなくなってしまう。
 こんなとき、他の人なら、どうするんだろう。素直に聞くのだろうか。……でも、自分には聞けない。それが距離だ。
「……普通の家の子供に生まれたかったな……そうしたら、母上の気持ちも、解ったのかな……」
 ぽつりともらしたノアの言葉を、耳ざとく少女は聞いていた。
「母親がいるだけで、いいじゃないのよ」
 少女は顔も上げずに、ノアと同じくぽつりともらした。ノアは息を飲んだ。
 まさか、この少女の母親はもう……
 謝ろうとしていたノアの様子に、少女は慌てて首を振る。
「ち、違う。誤解させたようだけど、あたしの母親は生きているわ」
「でも、母親がいるだけいい、って……」
「家にはいない、ってこと。ずうっと子供のとき離婚してね。全然顔も知らない。でも兄様、知らない方が幸せだ、って。すっごくワルイ女だったから、って。
 その通り、母親は一度も会いに来ない。子供に会いたくない、って兄様に聞いた」
 少女は自分の表情を見せたくないのか、ノアの顔を見ようとしない。
 ノアが何と言えばいいのかわからずに何度も口の中で言葉が死んでいった。
 少女は顔をそらせたまま問う。
「……母親と全然会えないの?」
「え? ……ううん。いつもは無理だけど、ときどきなら」
「親の仲、悪いの?」
「悪くはない、と、思う」
「ワルイ母親なの?」
「悪くはないよ。悪い人じゃない。会えたら、喜んでくれる」
「なら、それで何が不満なの。
 それは充分、幸せってことじゃないの」
 ノアは言葉がなかった。
「あたしは母親ってどういうものか知らないけど、それだけで充分じゃないの? それではいけないの?
 わかんなきゃ、解ろうとすればいいじゃないの。多分いつかは、解るわよ」
「……それってさ、適当でしょ」
「適当よ。だってあたし自身、母親のことなんて理解できないから。それでも、あなたはずいぶんと好条件だから、できると思ったのよ」
 自分は母に対してそんなに恵まれていたのだろうか。しゃんと立つ母。心の距離がある母。それでも、笑顔を向けてくれた……。
「あたしが不幸だから、あなたが幸せだ、って言いたいわけじゃないわよ? あたしだって幸せだって胸を張れるもの。ご飯はおいしいし、女だけど勉強することができるし、飢えたこともないし、兄弟は多いし。両親の離婚のおかげで、バカな恋愛結婚はしないようにしようと思えたし。
 あなたの事情は知らないけど、……でも、解ろうとするところとか、ちょっと、うらやましい」
 気がつくと、少女の手は止まっている。うつむいている少女にかけるべき言葉を、ノアは持たなかった。
 ノアは少女の赤黒い髪をなでようと手を伸ばした。
 そのとき、外から荒々しい足音が聞こえてきた。
 少女は立ち上がって、青い顔をした。
「兄様だわ!」
 そしてベールと裁縫道具をノアに押し付けた。
「今日は帰ってくる予定じゃなかったのに……! ああ、もう、裁縫道具は、どうせあたし使わないし、あげるわっ。とにかく、今すぐここから逃げて!」
 突如渡された荷物によたよたとたたらを踏むノア。
「え? 何? ええ?」
「だから、そこの窓から裏口通って逃げて! 男の子を家に入れたと知れたら、兄様がどれだけ怒るか……!」
 ノアはそのことに初めて気づいた。自分より年下(10歳程度)とはいえ、女の子の部屋に入るとは、無礼すぎたことである。だから彼女は人を呼ばなかったのか。今少女も動転していたが、ノアも動転し始めた。あわあわとぐるぐる回り始めた。
「え、あ、俺、うわ、なんてことを! ああ、え、あ、どうしよ……!」
「とにかく早く出てって! ああ、もう!」
 少女はどん、とノアの体を窓の外に押した。
「うわああ!」
 べしゃ、とノアはすぐ外に落ちた。少女の部屋は一階である。いてて、とベールと裁縫道具を抱えあげて窓の中を覗き見ると、
「ああ、兄様! 今日は帰ってくるとは聞いてませんでしたが……」
 と少女が扉を開けていたので、ノアは慌てて裏口へ向かった。裏口の門番は心得ていたのかノアを通してくれて、混乱のうちに、ノアはとにかく城へ向かって走り、母の館へ辿り着いた。

 
 母の館に辿り着いたはいいものの、ノアは館内には入れなかった。まず、このベールが絶対目に付く。ノアが館に帰ってくれば、必ず母は玄関口まで現れる。それには、このビリビリのベールは都合が悪い。
 せめて縫い終わってからでなければ、と思って、裏庭で縫うことにした。直射日光の当たらないせめて影で縫いたかったから。門番には、母には伝えるな、と強く念押しした。
 少女の縫ってくれた縫い目は、母の刺繍に比べたらズタボロであった。しかし、縫わないよりはマシである。ノアはぷるぷると震える手で針を取り出す。そしてぷるぷると震えながら針に糸を通す。
 さて、と縫い始めるも、するりと糸が抜けた。片方を結んでいなかったからである。
「な、なんでだ」
 完全に、ノアは裁縫の初心者であった。
 何度もするする抜けた後にようやく、片方をとめなければいけないことに気づき、結ぶ。そうしてようやく縫い始めた頃、背を預けていた館から声が聞こえてきた。
「よろしいのですか?」
 イライザの声だった。ノアは窓の近くへ行った。
「あのベールは、大切なものなのでしょう?」
「いいのです」
 母だった。
 ベールを抱えながら窓から見ると、母が穏やかに微笑んでいた。
「確かに、大切な物でした。私の支えだったと言っても過言ではありません。しかし……ようやく、私は断ち切ることができたのです。代わりに、思い出よりも大切な物ができましたから」
 イライザはゆっくりうなずく。
「殿下、ですね」
「そうです。……殿下が産まれる前は、子供の存在が、これほど私に影響を与えるとは思いもしませんでした。もう、私にあのベールは必要ないのです。殿下が幸せになってくださること、殿下が健やかであること、それが満たされれば私に惜しいものなどありません。
 そのために、会えなくて寂しくても、それが……殿下のためになるのならば。
 もう、過去にすがりつくためのベールは、必要ありません。未来を生き、未来に夢見る殿下が、今の私の支えです。
 それが、昨日わかりました。あれほど大事にしていたものよりも、目の前の殿下がとても大切でかけがえのないものだと、気づいたのです」
 ふふ、と母は笑う。
「子の成長は早いものですね。抱えあげられるほどにお小さかったお方が、もう、あれほどに成長して……
 殿下も、いつかは結婚なさるでしょう。かわいい子を儲けるでしょう。相手が心の優しい女性なら、心が通い合っていれば。それさえ見られれば、私の小さな感傷など、取るに足らないのです。殿下の未来が、光溢れ、幸せなものであれば……」
 真夏の太陽の光が、反対側の窓から母の顔を半分照らしていた。
 イライザは胸に手をやり、頭を下げて宣言した。母の想いを受けて、力強く。
「この命を賭けて、殿下を守ります」
「頼みます」
 強く、母は言う。
 見ていたノアは思わず手の力を抜いてしまった。
 その瞬間、ぶわ、とベールが広がった。
「あ、うわっ」
 思わずノアは声をあげた。すぐにしまった、と口を押さえるも、もう遅い。
「殿下! どうしてこんなところに……」
 イライザが驚いて窓から上半身を出した。
「まあ」
 と、母も声をあげて窓から見下ろす。
 ベールは大きく広がり、裂けた部分もしっかりと見られた。
 今さら手の中に収めても遅いとわかりつつも、回収した。そしておそるおそる振り向く。
「あ、あの母上……申し訳、ありません……」
 おずおずと、ノアは捨てられた子犬のような目で見上げた。
 その顔に、母は吹き出した。
 そして母は笑う。――まるで、しょうのない子ね、と言っているかのように。
 その表情に、ノアは雨が上がった空を見上げたような顔で笑った。
 薄く覆っていたベールがはがれて、ずっと見たいと思っていたものを、ずっと望んでいたものを見たような気がした。真実の輝きが見えた気がした。
 ランドリュー=ノア=シュベルク。12歳の、暑い夏のことだった。




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