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お久しぶりです母上――そう言ったノアに、よろり、と母が駆け寄った。そして母はほろほろ涙を流し、ぬぐった。ノアは焦り、どうしたのですか、と訊くも、いいえ何でもありません、と首を振るばかりであった。
そばにいたイライザは、ノアの母の心を推し測り、黙って窓際で母子の姿を温かく見つめる。
ノアは涙を流す母が、どこか痛いのだろうか、悲しいことでもあったのだろうか、とおろおろとしていた。
息子に久しぶりに会え、そして目に見えて成長した息子、それに対して母は感極まって泣いていることに、ノアはわからなかった。まだ、幼かった。
12歳の、夏だった。
番外編 ベール(1)
母が落ち着いたところで、ノアはエリバルガ国での留学生活を楽しげに語る。この科目が得意だとか、クラスメートのこと、自分の失敗談などを。
母に会うのは久しぶりだった。中央大陸にある山に囲まれたエリバルガ国と、島国シュベルク国は遠い。滅多に帰ってこられることはない。
夏の長期休暇を利用して、12歳のノアは帰ってきた。
「……それで、ウィンストン卿、ひどいんですよ。いつもいつも、何でも叱るんですから」
「いけませんよ、ランドリュー殿下。ウィンストン卿は殿下のことを考えて、叱ってくださるのですから」
「……はい、すみません。母上」
ノアは少ししょんぼりする。
母との距離感はよくわからない。べったりと甘えたことはない。いつのまにか、丁寧に、礼儀正しく背筋を伸ばして向かい合う関係となった。教師とは違うが、庶民の親子関係とはどこかが違う。いつからだろう……いや、最初からかもしれない。
出迎えるときでさえ、母は深く頭を下げ、臣下の礼をとる。それに疑問を感じることは、今までなかった。それがあまりに、当たり前のことだったから。
「母上。俺を『殿下』と呼ぶのはやめませんか? 普通に名前を呼んでください」
「まあ……」
母はいささか驚いている。
「まあ、そんなこと……。そんなこと、いけませんよ、殿下。けじめはしっかりとつけねばなりません」
「しかし、母上……」
「しかしも何もありません。それなりの地位を持つ者は、それにふさわしい扱いを受ける。それはとても大切なことです。母たる私がそれを怠り、殿下の下につく者に示しがつきますか。たとえ殿下の命令でも、それだけはできません」
きっぱりと言う母に、ノアは口ごもる。
命令だなんて、そんなことを言うつもりは毛頭ない。ただ……もう少し自分に近づいてくれてもいいじゃないか、と。そんな気持ちで言っただけなのに。
「殿下は皇子なのですから」
ノアは苦々しくそれを聞いた。もうそのころには、ノアの『皇子』嫌いは出来上がっていたから。それが顔に表れていたのだろうか、母は何かを言いかけた、が……
「お話中、申し訳ありません。お茶の用意が整いました」
いつの間にか、イライザが扉の隣にいた。
ノアはソファから立ち上がり、そちらへ向かう。
「さあ行きましょう、母上。お茶が冷めてしまいますから」
少し陰りのある顔で笑って、ノアは先に向かった。ノアが先に向かわなくては、身分が下である母は、決して向かわないから。いくら女性優先だと言っても、断固として聞き入れない。ノアは少ない経験からわかっていた。
扉の先の部屋は、大きな窓が開いた、開放的な場所だ。木の皮で編まれた涼しげな椅子とテーブルがある。その上に、紅茶が用意されていた。
窓の外には、樫の木が大きく枝を伸ばし、緑豊かに生い茂っている。薔薇の花園も見えるが、季節ではないようだ。長期休暇の時期の関係から、今後も薔薇が開くときは見られないだろう。
ためらいがちにイライザは言う。
「あの……テーブルの上にあったのですが、これはいかがいたしましょうか」
ノアが振り向くと、イライザは抱えきれないほどに広がる布を持っている。母はああ、と気づいたように、どこか複雑な顔で思案している。
ノアは近づいてその布を手にとる。
「何の布ですか、これは」
「これは……ベールですよ」
ベール?とノアは首を傾げる。布をひっぱると、奥に帽子らしきものが見えた。その帽子の端から、布が垂れ下がっている。よく見ると、その布も立派な刺繍が縫われている。
「結婚のときにかぶるものですよ」
「そんなものが、どうしてここに」
母と、父たる皇帝陛下は厳密には結婚していない。ギリンシア神教アラン派は、一夫一婦制で、離婚も認められていない。だから、公式には母は何の身分もない、外国からの亡命貴族となる。皇帝陛下の心一つで宮廷内の立場が変わってしまう、危うい場所に立っているのだ。しかし、厳密には非公式にも第5夫人として、そして第3皇子の母として、今後大きなことがない限り、地位は脅かされないはずだ……多分。
結婚をしていないのだから、式も行ってはいない。となると、ウェディングドレスも何も、そんなものはあるはずがない。
「これは、私の母から受け継がれていた結婚道具の一つです。ウェディングドレスや嫁入り道具は、亡命の際、持ってくることはできませんでした。唯一持ってきたものが、このベールだけ。
先日、ほころびを見つけて、繕っていた最中なのですよ」
優しげに、懐かしげにそのベールを見つめる母。
「私が繕っておきましょうか」
イライザの言葉に、ゆっくりと母は首を横に振る。
「いいのです。……私が、したいのですから」
イライザから受け取り、母は困ったように笑う。
「殿下の目の前で繕い物など、失礼ですね。今はしまってきますね」
「いいえ!」
後ろへ向きかけた母に、強くノアは引き止める。
「いいえ」
母はノアへ向きなおす。
「今、ここで繕っていても、俺は構いません」
「けれど……」
そんな失礼なこと、と母が言う前に、ノアは首を振る。
「母上が繕い物をするところは、見たことがありませんでした。……一度くらい、見ても構わない……でしょう?」
少しだけ緊張した面持ちでノアは母を覗き込む。
母とはいつも会話だけだった。たまに帰ってくるとき、そのお土産話だけ。それもいつも息子の話を聞いてばかりで、自分ではほとんど話さない。母が何にどう思っているのか、どんなことをしたいと思っているのか……滅多に、聞いたことがなかった気がする。ノアは初めて、ベールを見つめるときの暖かで優しく、そしてどこか悲しそうな母の表情を見た。
母子として、何かが、紗の先に何かが見えた気がした。それを今また閉じたくはない、と強く思った。
母はそんな息子にどう思ったのか。ためらった後、繕い物を始めた。
布のすれる音が時折する。ノアが紅茶を飲みながらちらりと見ると、銀の針を細かく布に通して、流れるように美しい模様を再び浮かびださせる。
窓の外の樫の葉が、ざああ、と風に揺れる。強い日差しが、ぞんぶんにその葉を照らして。
母はちらちらとノアを見ていた。ノアはそれに、何ですか母上、と言うと、いいえ、と答えて再び針仕事に集中する。
ベールは広げられ、足元まで落ちていた。
もしかしたら、母はこれをかぶりたかったのかもしれない。時代が、場所が、何かが変われば。
濃い肌、ブロンドの母の若かりし頃なら、真っ白いベールは似合っただろう。
自分が産まれてしばらく後、母の故郷・レーヴェンディア王国は滅亡した。その滅亡の数年前に、母は自国に危険を感じ(すでに内乱は何年も続いていたらしい)、このシュベルク国に亡命してきた。そうして、皇帝陛下に見初められた。そう、ウィンストン卿から聞いた。
母は故郷のことも、亡命時のことも、何も語らない。硬く口を閉ざす。殿下にお聞かせするような話ではありません、と決して話そうとしない。それならば仕方がない、と、ずっとノアは思ってきた。
しかし最近、思うようになったのだ。もし自分が皇子でなければ、こんなにも距離も心も離れた母子でなければ、もしかしたら話してくれていたのかもしれない、と。それは、誰にもわからないだろうけれども。
冷たい母子関係ではない。だが、どこかが遠いと思う。どこかが……。
どこで何を間違えたのだろう、と思う。幼いときからエリバルガ国へ留学していたのが間違いだったのだろうか。しかし、そんなこと、何もわからなかった自分にどうしろというのだ。あれは、国の政策の一部で……
思案に暮れていると、母が針仕事を止めていた。
「……? どうしたのです? 母上」
「…………。もう、いいのです」
表情の見えない顔で母は刺繍をなぞる。
「繕っても、無意味なものですから。もう、こんな、かぶることのないもの……」
「! けれども!」
母は立ち上がる。
「今度処分しておきましょう。もう必要もありませんから」
「母上」
母はベールを手に、隣の部屋へ行った。
ひゅお、と鋭い風が吹き、薄地のカーテンが、全てを隠すようにはためいた。
ノアは片手で顔を押さえた。
「わかりません……母上」
イライザは同じ部屋でノアの言葉を聞いた。
「わからない、わからないよ、全然」
なぜ途中でやめたのか、なぜ諦め処分するのか、なぜ今……
ノアには理解できない。故郷の愛着で、10年以上も大切に保管していたであろうものを。それを繕い、大事にすることはわかっても、今の行動は理解できなかった。
かすかに二人の間にかかる紗が開いたように見えたのは、幻だったのか……。
いや、開いていても、距離が遠すぎて、閉じられてしまったのかもしれない。
「普通の親子だったら、わかるものなのかな? 理解できたのかな?」
じんわりと涙目のノアは、悔しそうだった。
「殿下……親子だと言っても、理解できないことはありますよ」
「でもこれは、俺が皇子だからのことかもしれない。ずっと遠くに離れていた、普通じゃない母子だからかもしれない」
「普通、なんてありませんよ。誰もがそれぞれに事情を抱えるものです」
母にも事情はあるだろう。年の数だけ、深く。
「それでも、俺は、解りたかったんだ。母上に、俺が本当に頼りにされているのか、必要なのか、知りたかったんだ」
紅茶はぬるくて、あいまい。
「必要です」
扉の方から声がした。
「は……はうえ……」
母は表情が硬いまま。
「殿下のおかげで、私は宮廷にいることができているのですから」
しゃんと立つ母は、ノアの目の前で、座るノアをまっすぐ見下ろす。
「第5夫人の地位を得られたのも、こうして皇帝陛下から館を賜ったのも、全て、殿下のおかげです。皇子たるランドリュー殿下がお生まれになったおかげです」
「…………」
イライザは母に何かを言おうとしていた。殿下が聞きたいのはそういうことではなく、と言おうとしていたのかもしれない。けれど、うまく言葉が出なかったのだろう。
ノアは少しうつむいて、顔を上げたときは笑って、
「母上が喜んでくださって、嬉しいです」
と、返した。
自分は笑っているだろうか、と思いながら。
母も、ほっとしたように笑う。そうなるとイライザにはもはや、この件で口出しはできなかった。
そうして母子は再び、話をする。息子のお土産話を。
息子は、その距離の遠さと空虚さに胸を押さえたくなる衝動をこらえて。ああ、どちらも理解しあうことはできないのか、と。
もう一度風が吹く。
カーテンがかすかに舞う。
次の日、ノアは庭を散策していた。薔薇はつぼみをつけているが緑で、どんな色の花を咲かせるのかはわからない。静かに巡っているノアの邪魔にならないように、と、イライザは少し離れた場所にいた。
偶然にも、ノアは聞いた。母とメイドが部屋で会話しているのを。
聞くと、それは例のベールのことだった。
「このベール、売るなりして、処分してちょうだい」
メイドはベールを受け取ってうなずく。そしてメイドは外へ出て行った。
母は……メイドが出て行くまでそれを見ていた。出て行ってしばらくして、振り切るように、母も別方向へ去る。淡い喪失感をにじませた表情で。
ノアはそれらをじっと見ていた。樫の木の影がノアにかかる場所で。じっと見ていたけれども、母の表情を見たとき……、ノアは衝動的に走り出した。
イライザが慌てる間もなく、メイドの後を追いかけた。
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