僕はあのマークに触れてしまった。
Cを上に向けてその穴に短い棒を差し込んだようなあのマーク…
触れてはいけないと分かってはいたんだ。
しかし、もう何もかも遅い。
漆黒の画面上は徐々に光を放ち、意味不明な音楽と共に
スカイブルーの画面に変わっていく。
ああ、もう遅い、もう遅いんだ…

罪悪感と恐怖、それにほのかな期待…この複雑な感情が僕の網膜を、水晶体を狂わせてくれたら、僕はこのあとに待ち受けている真実を見ることもなく…
でも、本当にもう…
僕の網膜や水晶体は、悲しいほど正常に機能していた。
そして僕は見てしまった。
画面の一瞬の明滅。
その後は、画面いっぱいに広がるパールオレンジの輝き。
裸の男が2人、四角い光の中で抱き合っていた。
その後、小さな画像がその上にたくさん並びだしたけど、僕にはもう見えていなかった。
一番恐れていた可能性が、花開いてしまった。
「店長…」
真っ白の頭で紡ぎだした言葉は、広いこの部屋で静かに溶けていった。

〜純情ロマネスク〜

一瞬、放心状態に陥ったが、呆然としている暇はなかった。
すぐに機械の電源を落として、何事も無かったかのように振舞わなければ。
「信野くん…?」
突如、後ろから聞こえた声に、僕は飛び上がった。
急いであのマークを押す(このやり方で電源を切ってはいけないと教わったが、この場合仕方ない。)と同時に、機械を折りたたみ、なおかつイスから飛びのいて、床に転がり落ちた。

「信野くん…?」
デジャヴではない。今度は訝しむような音色を含んで、店長が再び僕の名前を呼んだ。
「何でしょうか?将軍様。」
僕は、世界で一番ナチュラルに答えたつもりだった。
「見ましたか?」
もう、核心をつっつきまくった質問。
しかし、僕はこんな時のとっておきの答え方を知っている。
「何をです!!?」
「いえ…その…」
店長が沈黙する。
その間、脳がグルグル回るような感覚に襲われながら、僕は次の言葉を待った。
クイズ『ミリオネア』に出演している人もこんな感覚だろうか?
やっと口を開いた店長。
「信野くん、パソコンで遊んでいたんですか?」
「まさか!!」
僕の脳が高速回転を始めた。遠心力により、右脳と左脳が引き離される感覚が…。
しかし、僕は僕にかかっている疑惑(実際、機械をいじっていたのだが。)を
晴らさなければならない。
「僕、あの四角いの…いじり方知らないし…。」
「…だったらどうしてそこのイスから転がり落ちたんですか?」
「だ…ゴホンっ、だってそれは…今流行のヨガをやろうと…。」
「男の子がヨガですか…。」
「いけませんか…?僕はいけます!!」
右脳と左脳が引き離されたのが原因か、僕は意味不明な台詞を口走ってしまった。
店長はますます疑いの眼差しを僕に向けたが、それ以上は何も聞いてこなかった。
ひとまず、悪夢は去った。

ピンポーン。

僕はこんな言葉を思い出した“玄関のチャイムはいつだって、悪夢の始まりだ”。
「店長、こんばんは!」
それは、思ってもみなかった妖怪の登場だった。
「ああ、蛯名くん。こんばんは。」

僕は無意識に走り出していた。手近にあった部屋に入って、手近にあった布製品に包まった。
そして、僕は全身全霊で神様に祈った。
(僕を助けてください僕を助けてください僕を助けてください僕を助けてください)

「信野くん―」
ああ、また店長の声がする…布越しだからよく聞こえない。
「信野!?いや…信野くんがいるんですか!?」
ああああ…同じ布越しなのに妖怪の声ははっきりと聞こえる。
(神様…ああ神様僕を助けてください助けてください助けてください助けてください助けてください)

「信野くん、出てきてください?ここは…」
「店長?やかんが噴いてますよ?」
「ああ、じゃあ見てきますね。」

これ、この状況、僕は…僕は妖怪と2人きりだろうか…
バタン。
待って?待ってドア…何故閉まる!?

「信野くん…」
皆さん、騙されないで。店長ではありません。妖怪の声です。
「信野…
っらぁあああ!!信野――――――っ!!」
「ひょえぁああああああ―――――っ!!」


妖怪の怒声と自分の悲鳴で鼓膜が破れそうだった。
そして、怪力で布製品の中から引きずり出された僕は…
僕は、僕は泣きそうになりながら心の中で叫んだ。
(さよなら、僕の青春っ!!)

「し〜な〜の〜…テメ―がどうして店長のベッドでうずくまってるんだ〜?」
ガチガチガチガチガチ
説明しますと、僕の歯の音です。ちなみに、ここがベッドだと初めて気がついた。
「何とか言え!!この役立たずがぁ!!」

妖怪の怒りに僕の恐怖が最高頂に達し、僕の五臓が張り裂けた感じがした。
僕は半ば嘔吐するように叫んだ。
「ごめんなさい!!役立たずでごめんなさい!!」
「お前、どうして店長の部屋にいる?」
少し怒りの落ち着いた妖怪が、僕に問いかける。
(ああ、怖いよ…何か目が怖いよ…コイツマジで妖怪だよ怖いよ――。)
僕は全身の震えが止まらなかった。脈拍が自己最高記録をたたき出しているだろう。
シーツを握り締め、言うべき言葉を必死で探す。
何て言えば、彼の怒りを治めることができる?何て言えば、僕の命は助かる?
「答えろ。」
妖怪が急かしてくる。もう限界です。願いが叶うならトイレに行かせてください。
でもこれ以上黙っている訳にもいかず、僕は震える唇で答えた。
「て…店長の…機械を…起動するために…。」
「機械?…お前、店長のパソコンいじったのか?」
「はい…。店長の…機械をいじって…そしたら…画面にパールオレンジの…」
僕は、暗示にかかったように妖怪にすべてを話した。

妖怪は、しばらく黙っていた。
僕は、シーツを引き裂く勢いで握り締めていた。

「信野、それ…店長に言ったら…」
突然の妖怪の言葉に、僕は心臓が飛び出すかと思った。
「言わないで!!よ…じゃなくて、蛯名さん!!」
「ん―店長、どこまでやかん見に行ってんのかな〜?」
「ようか…違う!蛯名さん!!お願いします!蛯名さんがこの前
 『ワガママ社長と甘い残業』の全巻を大人買いしてたの黙ってますから!!」
「信野…お前…俺を脅す気か…?」

僕は愚かにも、妖怪の怒りを煽ってしまった。
「めっ…めっそうもございませんっ!!」
真っ青になって否定しても、僕の運命が好転することは無かった。

「いい度胸だ。」

妖怪は自分のベルトを引き抜いた。
この世で、輪ゴム以上の硬さを持ったものはすべて凶器である。
僕は、再びやってきた恐怖に全身が砕け散りそうだった。
(こっ…殺される…死にたくない!!)
砕けそうな体を両手で抱きしめて、僕は目をきつく閉じていた。
せめてこの現実を、視覚からだけでも消す事が、僕にできる唯一のことだった。

ヒュッ
(たぶん)ベルトが風を切る不快な音。
次に襲ってくるであろう苦痛を、絶望した気分で感じていた。
すると…

「ちょっと待ったあぁ!!」

突然の声に、僕は苦痛から逃れる事ができた。
しかし、それは店長の声ではない。
恐る恐る目を開けて周りを確認するが、声の主らしき人は見つからない。
妖怪も、あたりを見回していた。

「こっちだよ!!天井!オレ、ビデオカメラ!!」
言われるまま、天井を見ると、確かにビデオカメラが喋っていた。
「あんたらねぇ、シチュエーション的には最高なんだけど、オレ的にこう…
 カメラアングルが気にいらねぇんだわ―。」
「カメラさん、どうしてここに仕掛けられてるんだ?ここは俺の店長の家だぞ?」
妖怪が、臆することなくカメラに話しかけた。カメラが喋ってるんだからビビれよ…と思ったが
きっと妖怪仲間なのだろうと結論づけた。
「オレは店長に買われたカメラなんだ。お買い上げのその日から、ここ―店長の寝室で
 映像を撮り続けているんだ。」

カメラの言葉に、僕はここにはいない店長に向かってつぶやいていた。
「店長…どうしたんですか?何、自分を盗撮してるんですか?防犯用ですか?
それとも、極度のナルシズムが引き起こした倒錯行為ですか…?」
「ってことは!!カメラさんの中には、寝室での店長の様子が余すところ無く収められているのか!?カメラさん!!あなたの映像、ダビングして下さい!!」
「そしてここにも倒錯した感覚の持ち主が一人…。」
「何か言ったか?」
「蛯名さんは、清く正しく生きています!!」

「誰が妖怪じゃボケ――――っ!!」
「ぎっやあぁぁぁぁ―――――っ!!
密かに呼んでたのにバレた――――っ!!
しかも今ちゃんと“蛯名さん”って呼んだのに――っ!!」

「あ―!!ダメダメ!!そのアングルじゃ!!もっと右によって―――!!」

僕は妖怪にめちゃめちゃにされました。
これも、触れてはいけないあのマークに触れてしまった祟りでしょうか?
苦しみ悶える僕の様子を、カメラさんがずっと見ていました。
時々、「いいね―!」「そう!そう、いいよ〜!!」「輝いてるよ―!」「よし!そこで一発!」
などの台詞が聞こえてきましたが、僕にとってはどうでもいいことでした。
カメラさんが、あの映像を誰にも見せない事を祈っています。


《舞台裏》
カメラの映像をチェックする店長。
「フフフ…信野くんと蛯名くん、よく撮れてますね。カメラを設置しといて正解でした。」
「オレもね―、アングルに逐一こだわったからね!自信作だよ!」
「カメラさん、近いうちにまた2人をここに呼ぶことにしました。
 バッテリー切れには気をつけてくださいね?」
「あたぼうよ!!オレもアングルの研究をしておくぜ!!」

信野くんの受難は続きそうです。






笹次郎様からいただきました〜。無理やり強奪したような感じになりましたが……(^v^;)
爆笑しました(笑) 突然のカメラ……!(笑)
ありがとうございましたっ! 笹次郎様のサイト「KEKI」はこちらです。