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 単身赴任のお父さんは辛いものがある。
 それが海外ならなおさらだ。まず、ごはんが食べれない。それに、気候が合わない。日本語がしゃべれない……などなど、いろいろな問題がある。
 何よりも、家族に会えないのがつらい。アメリカに来て3年。今年6歳になる娘など、もうお父さんのこと忘れてしまったかな、と思うとさびしくなる。
 目の前で、親子の抱擁、ほっぺにキス、なんてのを見ると、はからずもそういったことを考える。


       キス



 ニューヨークのはずれたところにある、小さなアパートに私は住んでいる。隣部屋にはニューヨークという町に似合わない、穏やかな中年夫婦が住んでいる。その夫婦は、私が日本から家族を置いてやってきた、食事やら家事やらが大変だ、という話を聞くと、毎週週末に一緒に食事をとりませんか、と誘ってくれた。
 喜んで私はその誘いを受け、毎週、奥さんの作る、ボリュームのある料理を食べている。
 正直あまりにもボリュームがあることに食傷気味だが、誰かと共に食べるというだけで少し楽しい気分になる。ちなみにビッグサイズのハンバーガーも苦手だ。
 その日、ワインを持参して中年夫婦の部屋に行った。
 いつものように夫婦は喜び、今日のメニューの説明をする。
 奥さんもご主人も少しだけふくよかで、柔和な印象である。奥さんは主婦をやっていておとなしめで、日本の古典的家庭を彷彿とさせるのだ。アメリカに来て思うことではないだろうけれども。
 いつもはそれで、さあ食事、なのだが、その日は違った。
「マサキ、ちょっと待ってちょうだいね。今日は私達の息子が急に来るというのよ」
「息子さん、というと、コンピュータ関連の会社に勤めているっていう?」
 話していると、ちょうどチャイムが鳴った。
 思ったとおり、それはこの夫婦の息子だったらしい。
「久しぶり、母さん」
「ジャック、同じニューヨークに住んでいるっていうのにめったに来ないで。親不孝ものだね」
 彼は日本人のような黒髪でない、エキゾチックな黒髪の、がっしりとした若者だった。
 文句を言いながらも奥さんはその息子であるジャックと軽い抱擁を交わし、両方のほっぺたにキスを交わした。
 ジャックはご主人とも同じようにした。
 アメリカに来て3年。生活にある程度は慣れてきたものだが、苦手なものだってある。
 ビッグサイズのハンバーガーもだが、何よりアメリカ人の軽く交わすキスが苦手である。
 30歳という自分の年齢から考えれば古臭いのだろうが、キスとはもっと……軽々しいものでなく、どこか神聖なものな気がするのだ。
 神聖ではあるが、どこかじめっとして、息苦しくて、薄暗くて、窮屈で。そんなイメージがある。
 それが人とは違っていることは自覚している。
 なぜそういうように考えるようになったのか、というのはわかっている。中学時代の、ささいな、異常なことから。


 中学時代の夏。夏休み前の、放課後。
 美術室に、私と彼女はいた。
 2人一組になり、相手を描く、というのが美術の課題だった。
 人数の関係で私は彼女と組み、私はすでに授業時間中に描き上げていた。ところが彼女は丁寧に丁寧に描くものだから、モデルである私も放課後までつきあうことになった。
 彼女とは……それほど仲良かったわけではない。
 話はしたが、努めて仲良くしようとは思わなかった。
 苦手だった。女子が固まって話をしていても、彼女は特異な存在に見えた。
 笑い方が、苦手だった。避けていたと言ってもいい。
 黙って椅子に座って、彼女と二人きりと言うのは、窮屈だった。逃げ出したかった。
 彼女はというと、私まで巻き込んだための罪悪感が感じられる目でときおり私を見て、筆を大きな絵に運ぶ。
 彩色は肌に入ったばかりだった。
 美術室は一種独特な、シンナーのようなにおいがした。
 窓が開いているにもかかわらず空気がよどみ、熱かった。時折汗が流れる。
 彼女と目を合わせるのがどこまでも息苦しくて、逃げ出したかった。
「あら」
 空気がはじけた。
 パレットで色を組み合わせていた彼女は、その小さな言葉で沈黙を破った。
「唇の色が、うまくでない」
「どうでもいいよ、そんなの」
「よくない」
 彼女はきっぱりと言って、再びパレットの中で絵の具を混ぜ合わせる。どろどろとした絵の具を、ひとつ混ぜるごとに違う色合いを出しながら。
 彼女の視線が私の唇に注がれるのがわかると、顔が赤くなった。
 彼女は立ち上がった。パレットを持って、キャンバスの横を抜け、私の前まで来る。
 そして、彼女は細い人差し指を、パレットの中のできあがった絵の具に、ちょん、とつけた。
 腰をかがめて、
「色があっているか、確かめさせて」
 と、返事も聞かずに、私の下唇の端から、絵の具のついた人差し指でなぞり始めた。
 目を見開きはしたものの、声は出なかった。いや、唇に彼女が指で触れている以上、唇を動かせられなかった。
 ゆっくりと、彼女は口紅を塗るかのように私の下唇に絵の具をつけてゆく。
 それが冷たくて、背筋がぞくりとした。
 逃げ出したかった。逃げ出さなければならないと思った。
 先ほどよりもずっと強烈な衝動がやってきた。
 それにもかかわらず、私の体は、どこも動かない。彼女の思うがままに任せている。
 だが、逃げ出さなければならない、という警報は頭の中でどんどんと強くなってゆく。
 彼女ははみ出さないように、と自分の唇を注視している。
 息苦しい。狭い。
 そして、暑苦しい。
 暑苦しさのあまり、くらくらとしてくる。
 彼女の顔を見ることはもう、できなかった。視線を下に移すと、彼女の首筋に、あせものようにいくつかの汗の粒が見えた。
 そのひとつが、つー、と、首筋を流れる。
 汗はきらめくように、セーラー服にまで達した。
 警報が、強くなった。
 もう、限界だ。限界だ。限界だ。
 そのときの自分はどんな顔をしていたのだろう……
 指先は片方までたどり着いたところだ。彼女は視線を少し上げ……
「ふふ」
 ――と、笑った。
 私の苦手な笑い方で、笑った。
 もう、つかまった、と思った。逃げられない、と。
 もうおしまいだ、と。


 夫婦とジャックは、久方ぶりの会話を楽しんでいた。それを邪魔するほど野暮ではない。
「それにしても急に来るなんて」
「相棒が、カリフォルニアの実家に、急に帰ることになってさ。外食でも良かったんだけどね」
「本当に親不孝ものだな」
 と、ご主人も憎まれ口を叩くが、家族だからこその言葉だろう。事実、彼らは笑っている。
「最近、相棒のモデルの仕事が忙しいらしいんだ。最近からかったりいじめたりして遊べなくてつまらないんだよ」
 ため息をつきつつ言うジャックだが、私は少し笑った。
 話の流れで、『相棒』とは同棲している恋人であることは知っている。結局、のろけではないか。
 笑ったところで、ジャックは私の方を向いた。
「マサキ、あなたもニホンに家族を残しているんだろう? さびしくないかい?」
 それに対しても、私は少し笑った。
 ――彼女とは中学を卒業してから、会っていない。
 あれからなぜかキスが苦手になった。あのときの空気を、よどんで、息苦しい空気を思い出すのだ。
 それが原因で別れた人もいる。今の妻も、不思議がっていた。
 いつかこの呪縛が解けたとき、この親子のように、喜んで娘の頬にキスをするだろうか。
 ――そのときには、娘は嫌がるかもしれないけれど。
「とっっっっても、さびしいさ」
 あまりにも力をこめて私が言ったもので、3人は笑った。






あとがき
お題3つ目。「キス」と言うお題で書いてこの内容です。あまあまなものを望まれた方には申し訳ありませんが……。「キス」という率直かつ恋愛一直線のお題を出されてこれでは、私は今後きちんとした恋愛小説が書けるかどうか、はなはだ不安。これはこれで私としてはいいですが。
何気に「動けないのは」とつながりがあったり。(2005.11.12)


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