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お題 記憶(奪ふ男 中三時代 瑠璃子視点)
瑠璃子は『どうしてこうなったんだろう』と何度も思い、何度もつぶやいてきた。
智明と普通の幼馴染として過ごしていた時期もあったのだ。
……鈴山と付き合って、その彼を奪われるまでは。
瑠璃子は快い記憶を、幾多振り返る。
* *
つま先にぐっと力を入れ、跳ぶ。指先から魚のように水に飛び込む。
腕で水を掻き分け、脚を振る。
前へ、前へ。
隣に先を越された。もっと早く泳がなくちゃ。
あと5メートル。
タッチ板に手をついて、足をついて顔を水から上げた。
隣を見ると、同じように顔を上げて瑠璃子を見ていた。どうやら同時だったらしい。
同じ部員の彼女と笑いあって、水から上がった。
中学の水泳部は、基本的に夏がメインだ。温水プールがないので、冬は体力作りとボール競技などに費やす。
その鬱憤を晴らすように、夏、泳いで泳いで泳ぎまくる。
二学期が始まったので、泳ぐ期間はもうすぐ終わりだ。瑠璃子は残念でもっと泳ぎたいと思うけれど、同じ三年生の同級生には、受験のために早めに部を辞める人もいる。
瑠璃子はもう一度25メートル泳ごうとプール脇を歩いた。
「ルリ、まだ泳ぐの?」
うんざりしたように訊くのは、智明の声だ。
見回すと、金網の向こうに彼の首だけ見えた。
なんてことはない、プール自体がもともと高さがあるので、金網の向こうとは約150センチほどの差ができているのだ。
足下の所に顔のある智明に合わせて、瑠璃子はしゃがみこんだ。
「もうちょっと泳ぐよ」
「まだ? もう帰ろうよ」
智明とは一緒に帰っている。瑠璃子が部活動で遅くなるときは、智明が待っている。ちなみに智明は帰宅部だ。
四時くらいだろう。校庭では野球部が部活動をしているし、まだ明るい。
けれど智明は苛立っている。
「ただ泳いで何が楽しいんだよ」
と三年水泳部の瑠璃子に、今更なことを言う。
「暇なら智明も水泳部に入ればよかったのに」
「嫌だよ。裸をじろじろ見られたくない」
確かに水泳の授業のとき、妙に智明に視線が集まっていた。
「さっさと帰ろう。ほら……」
と言う智明の後ろで、
「あーっ!」
野球部員の声が響いた。
次の瞬間、重い音がして智明が倒れる。
倒れた智明の近くに、野球のボールが転がった。
「智明っ!?」
智明は保健室のベッドに寝ていた。
周囲にはたくさんの人が集まり、智明のことを心配している。部活動で残っている人しかいなかったというのに。
「金原くん、大丈夫?」
智明は艶のある笑みを浮かべ、小さくうなずく。
「うん、大丈夫。もうみんな帰っていいよ。心配させちゃってごめんね」
えーいいよー、と言いながら、にこにことみんな智明の側にいる。
「でも、ちょっと一人で寝たいんだ」
下から見上げる智明の媚態に、彼らは保健室を笑顔で去る。
瑠璃子はというと、山のような人だかりに入ることもできず、出口に近い離れたところで見ていた。
智明の見舞客のひとりは、瑠璃子に冷たい目を向け、
「あんたのせいで金原くんが怪我したんだからね」
と吐き捨てた。
元々瑠璃子は、智明の近くに集まる人たちに好かれていない。
智明を恋愛関係で好きなんだろ、付き合っているんだろ、と問い詰められることは多い。ただの幼馴染の関係でしかないというのに。
それを毎回否定するが、それでも智明と一緒に登下校したり話したりしている瑠璃子を気にくわないらしい。
今回のことは野球部のボールが偶然当たったことだから責任は感じないけれど、心配はしていた。
取り巻きの人々がいなくなってから、瑠璃子は智明に近づいて、ビニール袋に入れた氷水を出した。
「智明、頭痛い?」
「痛い」
智明は横になったまま、眉根を寄せている。
瑠璃子は智明の頭をそっと上げ、やさしく髪を撫でるように触れる。
「ここらへん?」
「もっと下……」
瑠璃子は智明の頭を上げて肩口に押しつけ、ゆっくり手を下ろす。
「そこ」
と智明が答えたときに瑠璃子が触れていた場所は、ちょっとこぶができていた。けれどそんなに大きく腫れていない。
瑠璃子は横に置いていた氷水の袋を取り、こぶに当てた。
「うん……気持ちいい。ちょっとこのままでいて」
智明は瑠璃子の腰に手を回したので、彼の頭を枕におろせなくなった。
奇妙な体制で彼の身体を支えるのは辛かった。それに気づいたのか、智明は身体を本格的に起こす。
上半身を起こした智明が瑠璃子に寄りかかっているような状態となっていた。
「智明……普通に寝た方がいいと思うよ?」
瑠璃子は智明の頭に氷水の袋を当てているだけでよくなったが、これで果たして意味があるのか。
「じゃあ、一緒に寝ようよ」
智明は甘い声でささやいた。
は、と思って反射的に身を引いた。しかし智明が腰と背中に腕を回していたため、逃げられない。
背に回された手が背骨をなぞる。ぞくりとする。
逃げようと力を入れるが、智明は強固に離さない。
「逃げられると思ってるの?」
すぐ近くで聞く智明の声は、麻薬のようだ。思わず何でも言うことを聞いてしまいたくなる。
中学三年ともなれば、『一緒に寝る』がどういう意味かはわかる。
瑠璃子は逃げようとして固くしていた身体の力を抜いた。
ま、いいか。
……なんて思えるはずがない。
瑠璃子はつかんでいた氷水の袋を智明の顔面に強めにぶつけた。
うなって智明は腕の力を弱める。その隙に瑠璃子は身体をひるがえして逃れた。
瑠璃子は怒っていた。
「智明、私がそういう冗談嫌いなの知ってるでしょ。勝手に一人で寝てれば? 私、一人で帰る」
瑠璃子はカバンを持って、保健室を出た。
保健室を出て廊下を進むと、ジュースの自動販売機があった。
そういえば、智明はこのジュースが好きだったな……。
怪我人に乱暴なことをして悪かった気もする。冗談にムキになった自分も悪かったのだ。
仲直りのために……。
瑠璃子はカバンから財布を取り出し、小銭を入れていた。
ジュースを二本買って保健室に戻ると、たくさんの笑い声が聞こえてきた。
そっと扉を開けると、智明のベッドの周囲にたくさんの人がいる。智明の取り巻きの人たちだ。
「金原くん、一緒に帰ろうよ」
「うんいいよ」
そんな声がする。簡単に智明は言っていた。
瑠璃子は扉から離れた。
それから抱えているジュースを見る。
無駄になっちゃったな、このジュース。
どうせこんなジュース、必要なかったけど。いつも一緒にいて家族のようで、今日ケンカしたって、明日にはけろっと普通の会話ができるから。
それでもここにはジュースが残ってしまっている。一本は飲めるけど、二本はさすがに飲めない。
「どうしたんだ、谷岡」
立ちすくんでいる瑠璃子に話しかけたのは、男子水泳部の鈴山だった。
水泳部つながりということで、話をする機会は多い方だ。
「ねえ鈴山君、このジュース好き?」
「好き好きー。何くれんの?」
「あげる」
サンキューと言って、鈴山は喜んで受け取ってくれた。
その日、初めて智明以外と一緒に下校した。それが最初のきっかけのきっかけで、鈴山と付き合うことになるわけだが、後のことを考えると良かったのか悪かったのか。
懐かしい中学三年の、夏の記憶。