TOPNovel


   雲の味


 雲の上だった。
 彼らは雲の上を歩いていた。
 もこもことした雲は、踏んづけると少し足が沈み、しかし際限なく沈むことなく、あった。
 真っ白な、雪原のように雲が太陽に照らされていた。上は『雲一つない』青空。
 その白と青の中で、黒い点々が、巨人から見たらまるで蟻のように、えっちらおっちら歩いていた。
 二人は黒い礼服を着ていた。ステッキを持って、首には蝶ネクタイをつけて、どこぞの舞踏会に行くつもり? といういでたちであった。
 二人の服装は似たようなものだったが、決定的に違っていたのは、一人の頭に帽子が乗っかっていて、一人ははげた頭をさらしていた。
 もうちょっと違いを説明すると、帽子をかぶっている方は若く、背も高かった。かぶっていない方は年をとっていて、口ひげが整えられていた。
教授プロフェッサー、このあたりですか」
 若い方の男が尋ねた。
「ああ、このあたりのはずだがのう。風に飛ばされてしもうたか」
 教授はあたりをきょろきょろ見回したが、真っ白い雲が広がるばかりだ。そのとき、おや、と教授が気づいた。
「あそこの入道雲……
 あそこに儂のシルクハットが引っかかっているかもしれない。スミス君、取ってきてくれたまえ」
 スミスは露骨に嫌そうな顔をした。
「確かに僕は教授の助手ですが、そこまでしなければいけませんか? 教授が不注意で落としたのに」
「君もずけずけと言うのう。こういう場合、若者が率先してやる、というのが普通だぞ。少なくとも儂が若者のころは」
「そりゃ時代が違いますよ。
 僕はそれほど運動が得意ではないんです。雲のぼりなんて子供のとき以来です。それも教師に手をむちで打たれてからやってません」
「ええい、さっさと行ってこんか。帽子なしでなど無様すぎる。そうなれば儂は学会なぞ行かんからな。断固として!」
 スミスは嘆息して、もくもくと積み重なっている入道雲に登り始めた。
 硬い岩がなく、全てが柔らかいものでできていたので、つかみどころがほとんどなかった。ヘタをすると千切れてゆくのだ。
 なんとかかんとかスミスが登りきるも、めぼしのシルクハットは見つからなかった。
「ありませんでしたよ、どこにも! 裏側ももちろん探しましたがね! どこかに落ちてないか、と眺めてみましたが、真っ白い雲が広がるだけです。
 あと可能性があるのは、遠くに見えた雷雲だけでしょう。暗くてよく見えませんでした」
「よし、そこだ。行くぞ、スミス君」
「ま、待ってください、教授。
 僕は今、入道雲を登って降りてきたばかりなのですよ。少しくらい休ませてください。それに昼食もとっていないんで、もう、歩けませんよ」
「君は文句の多い人間じゃ。ちょっとだけ休憩しよう。そこらの雲を食べなさい」
 スミスは少し離れたところの雲をこぶし大にちぎった。そしてそれを一口大にちぎって、口に放り込んだ。もぎゅもぎゅ、という音をさせながらスミスは食べるが、表情は暗い。
「やっぱり……調味料がないと味がしませんよ。味がない……。こしょうとは言いません。せめて塩、できればレモンをしぼったものが欲しい……」
「何を言うかね。雲だって素材の味があるだろうに。調味料はあくまで引き立てるにすぎん。ここらの雲なんて、明らかにジューシーで、食べ応えがありそうではないかね。……言っているうちに、儂も食べたくなってきた」
 教授も食べだして、二人で座って、口いっぱいに雲をほおばっていた。にこにこと笑って教授は言う。
「儂が子供の頃は、こんな雲、ろくに食べられなかったぞ。雷雲しか食べられなかったのだよ。雷が残っていて、焦げてしまったやつもいたぞ。味も最悪だったしのう。思い出したくない味、ナンバーワンじゃ。
こういう良質な大人しい雲をいつでも食べられるような時代に生まれたことを、君は喜ぶべきだぞ、スミス君」
「そうでしょうか……。いい雲、いい雲、と言いますが、学生時代毎日毎日食べさせられたおかげで、そのまま食べてもおいしいと感じないのです」
「それは贅沢な悩みだ」
 食事が終わると、二人はもう一度雲をちぎった。そしてポケットの中につっこんだ。おやつ代わりか、夕飯に持って帰ろうというのだ。
 暗雲へ向かって二人の紳士は歩き出した。
 ごろごろごろ、と鳴り響く雷雲に、教授とスミスは震え上がった。目の前の雲は暗く、雷が走っているような状態なのだから。
 白い雲と雷雲との間には、立ち入り禁止の柵がある。
「教授、あそこにシルクハットが!」
 スミスは雷雲で横たわっているシルクハットを指差した。
「おお、丸焼けにはなっていないようだ」
 教授は手を伸ばしたが、届かない。
「この雷雲、入ってはいけませんよねぇ……」
「当たり前じゃ。こんなまずそうな雲」
「…………。……まずそうですか? 僕、食べたいと思うんですが」
「……君はゲテモノ食いをするタイプかね?
 とりあえず君の嗜好は置いておいて。あのシルクハットをどうするか、じゃ」
 う〜ん、と二人はうなった。
 そうだ、とスミスはひらめいた。
「教授、そのステッキを貸してください」
 と教授のステッキを借り受けると、それを、えい、とシルクハットの方へと向けた。少し尺が足りなかったので、柵から目一杯乗り出して、ステッキの手に持つ部分にシルクハットを引っ掛けた。そしてこちらの方へと投げると、ふわり、と教授の手の中へ落ちていった。
「おお、ありがとう、スミス君。
 しかしなぜ儂のステッキを使ったのかね」
「教授のステッキの方が、引っ掛けられやすそうでしたから。それに、僕のステッキは新しいんです。下手して黒焦げになったらたまりません」
「…………」
 教授はシルクハットをかぶった。
「なんだか儂は疲れてしもうたよ。少しここで休んでいくかね。学会まではまだ時間があるようだ」
 内ポケットから懐中時計を取り出して、教授は座った。
「教授、ちょっとおやつを食べていいですか?」
「…………。構わんよ。もう。
 スミス君。今回のことはありがたいがね、君はもうちょっと、一般的なことを勉強するべきではないかのう。常識とか。
 確かに儂の研究に、君の力は充分役に立った。しかしその前に学ぶべきことを、いろいろと見落としてきておる気がするのじゃ。うん。
 儂の、雲が小さい水滴や氷の粒の集まりにすぎん、なんて研究、付き合ってくれるのは、人生に暇な君ぐらいしかおらんからのう。感謝はしておるのだが……」
 教授が呆れや疲れなどを滲ませながら助言していたが、ふと、そのスミスが目の前にいないことに気づいた。
 雷雲の方へ振り返ると、柵の向こうでスミスがしゃがみこんでいるのだった。
「ス、スミス君っ!」
「あ、教授。一度、雷雲を食べてみたかったんですよ。教授の世代の人が皆、思い出したくもない、と言う味を……いったいどんな珍味か……」
「ば、ばかっ! 君はばか者じゃっ!」
 スミスは、ふふふ、と笑いながら雷雲をすくった。そしてそのままかぶりついた。
「……おいしーい」
「なんじゃと?」
「おいしいですよ、この雲。サクサクとした食感がたまにあって、新鮮です。味のほうも、雷がピリリときいて、ひきたてています。
 これを今まで食べてなかったなんて、僕はなんてばかなんだろう。最高級の味ですよ。キングオブ雲!」
 絶賛する様子に、教授は怪訝な顔をした。
「こげこげでたまに痺れるような雲のどこが……?」
 それとも味が変わったのだろうか、と帰ってきたスミスの手の中にある雷雲を少し食べた。しかし間違えて苦い虫を食べてしまったという感じで、すぐにぺっと吐き出した。
「君は味覚が絶対におかしいぞ!」
「そうですか? ふふふ、家族に持って帰ったら喜ぶだろうな」
 スミスは残りを、ポケットに入れた。先ほど白い雲もポケットに入れていたので、両方のポケットはいっぱいだ。
 二人は再び、もくもくと歩き出した。
 シルクハットを手に入れたので、今度は二人とも同じ風体だ。
「学会には間に合うかな」
「まだ時間はあるさ」
「教授……ものすごく今さらなことなんですけど、僕この研究好きではありません」
「……それは本当にものすごく今さらだな」
「だって、雲が結局水だ、なんてことを雲を食べるときに思うと、あんまり美味しく感じられませんよ。美味しいとか不味いとか言ってるけど、これ水かよ、って」
「スミス君、真理を追究することは尊いことなんじゃぞ」
「そうだとしても……僕、美味しく食べたいです」
 教授は沈黙した。
「……子供のときは、空想的なばら色の夢を見ていたんですよ。けど現実や真実は、うまくいかないものですねえ」
「どんな夢を見ていたんじゃ?」
「雲の下に降りることです」
 はは、と教授は笑う。
 蒼穹の空に太陽が輝き、平らかに広がる雲を、燦然と照らしていた。
 雲の上にぽつん、と黒い二つの点があって、それはアンバランスなようで、均衡が取れているように見えた。






   後書き
 これは今年(2006.6)に部誌に出した短編です。



TOPNovel